印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

農事組合法人 古賀植木園芸組合
電話:095-839-4472 FAX:095-839-4577 mail:info@kogaueki.or.jp

DSCN0031.TIF

DSCN0500.JPG

DSC_0026.JPG

古賀植木の歴史

古賀植木の由来

DSCN0032.jpg赤瀬邸のらかんマキ元亀2年(1571年)貿易港として長崎が開港された。寛永18年(1641年)に「平戸オランダ商館」が長崎出島に移されてからは、長崎は日本唯一の外国貿易港となり、めざましい発展をとげてきた。当然人家も増え農作物の需要も多くなる。近郊へもその影響は大きく、古賀の人たちも農作物や植木を担いで長崎まで運び、行商をして小遣い銭を稼いでいた。すなわち古賀植木業としての始まりとされている。
 万治2年1659年中国商人の許登授は破船、沈没の危機に遭いながらも無事長崎に入港した。これを滝の観音の導きと信じ、これ以来、中国商人は長崎に来るたびに滝の観音にお参りするようになった。帰りには古賀一帯の植木見物にまで足をのばすようになり、中国商人−滝の観音−古賀植木との縁が結ばれていった。
 長崎が次第に発展し、中国との交流が綿密になるにつれて、中国人向けの曲木(桜、グミ、松、楓など)が作られ、農業の傍ら、副業として長い年月が続いてきた。
 弘化年間(1845年ごろ)一中国商人が大量の植木を注文してきた。植木業者が話しあって共同発送し、予想以上の利益を得ることができた。

 このように先人たちの努力で古賀植木の販路も拡張され、古くから長崎はもとより、中国、オランダへも輸出され、さらに幕末には諌早、大村城下へ、また喜々津の舟津から小舟を漕ぎ出して時津、彼杵、早岐、横瀬浦、面高などの宿場町、あるいは平戸城下付近まで行商に行って売り歩いた。
 安政年間になると、中国、オランダに限られていた外国貿易船も制限が緩和されて、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ各国の船も長崎に寄港するようになった。と同時に出島、唐人屋敷に閉じこめられ、外出を制限された外国人も自由に長崎市内を歩けるようになり賑わいをみせた。こうした外国人も植木の美しさに魅了され、入港した外国船の船員たちも、植木行商人を見つけると駆けつけて買い求める姿も見られ、「古賀植木」の名もいっそう高まっていった。

「ながさき植木物語」より
▲ ページトップへ

明治〜大正

ebisu1.jpg 明治6年、向名の札元にあった恵比須様が、植木仲間の手で松原名西山に遷座された。
 明治文化が進むにつれて植木の需要も伸びてきた。そこで植木仲間の強化、親睦が強く望まれたわけだが、そのためには植木仲間のよりどころとなる神様を祭ろうということになった。
そこで一同が協議をし、現在地に地開きし、植木仲間だけの奉仕作業で祭ったのが、この恵比須神社なのである。それ以来、植木仲間の守護神として春と秋の2回祭礼をしてきた。明治末期からは年1回、4月20日を恵比須祭りとして現在に至っている。

 当初は十人ぐらいの植木仲間だったが、年々仲間が増え、大半の里人が仲間に加わったため、従来は越木(現在の越木園)の「虚空蔵菩薩」が里の氏神だったのに一人減り二人減りし、ついには「虚空蔵菩薩」は久保田家個人の神様になったという。

 明治18年、松田嘉平はロシアのウラジオストクやハバロフスクに渡航し、ロシア皇帝の歓迎を受けたうえ、シベリアへの植木輸出の端緒を開いた。以来ロシアへの植木輸出は年々増え、明治30年代になって最盛期を迎えることになる。
 時代が進むにつれて庭木の栽培が盛んになり、庭木といえば松の曲木が主流を占めていた。次第に雑木が取り入れられるようになり、松の曲木も直幹の自然づくりへと変化していった。当時、古賀の恵比須神社付近から石原墓地付近まで、見事な松の曲木がずらりと並んでいたという。
 このように植木栽培は徐々に栄えていき、ことにロシア(ウラジオストク、ハバロフスク)行きの植木は、輸出始まって以来の最盛期を迎えた。またロシア人も時には松原まで足をのばし、宿泊して植木見物をして買って帰る人もいた。しかし明治37年、日露戦争が始まり取引は中止され、栽培業者をはじめ大打撃を蒙ることになる。
 日露戦争のため、これまでロシア輸出に重点を置いていた植木業界は壊滅的な打撃を受けた。植木は全く売れず、各戸伐採して普通畑に転作、農作物中心の農業にもどった。植木は行商用の小物がわずかに栽培されるだけで、時々長崎の庭師が松の曲木とカシ、マキ、サツキ、クチナシなどを買いに来るという不況に陥った。

ebisu2.jpg恵比寿神社 日露戦争の終結後、古賀の若い人たちはロシアだけに頼っていては植木の発展はおぼつかないと、県内各地のはじめ、ロシア、中国以外の海外にも販路を求めて雄飛していった。やがてウラジオストク輸出も再開されたが、戦前の十分の一にも満たなかった。そこで植木業者たちは大連、旅順、天津、青島、上海、漢口、遠くはマニラまで出向いていき、幾多の難関をへてこが植木を海外に広めていった。
 こうした海外出張販売と、長崎、佐世保の発展にともなって、ようやく植木業界も息を吹き返し、その後の発展の基礎を築いていく。
 当時の古賀独特の植木としては、特技を生かして養成した松、カイドウ、楓、ボケなどの曲木づくり、軽石付の植木鉢物類が好評を受け、最盛期にはその栽培面積は30haに達していたが、それでも品不足で半成品を久留米その他から移入して仕立てることもあった。

 大正3年第一次世界大戦が始まり、国内では軍需景気にわき、不況にあえいでいた植木業もようやく息を吹き返してくる。不況に絶えて盛り返しを待っていた古賀の植木業者は、放置された荒木の移植にとりかかった。やがて芽が出て次々と売られていく。それでも間に合わず、山から運び出した荒木までそのままの姿で売れたという。 しかしこの軍需景気も長くは続かなかった。4年後に戦争も終わると再び不景気が舞い戻った。古賀の植木業者も元の小売商時代のようにしぼんでしまった。 大正15年は古賀植木にとって重要な意義を持つ年であった。この年に「古賀植木園芸組合」が正式に組織化され、組合としての機能を発揮していくのである。いわゆる「植木組合」あるいは「園芸組合」なるものは、すでに明治時代にも存在している。当初は「植木仲間」と称して十人前後の業者が団結していた。明治41年の資料には前年の40年にすでに「園芸組合」が組織されたという記録が見られる。その後大正15年になってはじめて組合規約をつくり、経費予算も立て、組合長以下理事、評価員、相談役などの役員も選定し、事業計画も確立して、名実ともに組合組織としての機能を発揮するに至った。

 組合発足の大きな理由の一つは、大正末期、長崎で毎年植木市を開くため組合をつくってはどうかと長崎市役所の勧めもあって組織づくりを急いだとされている。
 大正末期に長崎市で開港三百五十年記念博覧会が開かれた。第一会場は出島、第二会場は商品陳列所(現在の日本銀行支店)だった。その時長崎市役所勧業課から第二会場に古賀の植木を出品して欲しいと依頼があった。植木仲間で相談の結果、仲間を中心として希望者だけが出品することになり、1ヶ月間、鉢植え、小物、そのほか万年菊、桜草など草花などを陳列して出張販売をした。
 博覧会も無事に終わって、翌年の春、市役所の勧業課長が古賀の松原を訪れ、今後も毎年春一回植木の展示即売会を長崎で催すために、古賀の植木業の人たちで組合をつくって出品して欲しいと相談を受けた。市役所の申し入れを受けた植木仲間は、何回か集まって協議した結果、植木組合の設立を決め、長崎市の勧業課にも届けて古賀植木園芸組合の成立をみたのである。

 以上のようないきさつを経て、植木の普及ということもあって、古賀植木園芸組合が近代的な組織によって結成され、「古賀植木」の技術の向上を図るとともに販路の拡張や展示即売会、生産の拡充、先進地の視察などその後の発展に大きな役割を果たすことになるのである。

「ながさき植木物語」より
▲ ページトップへ

昭和〜平成

sougyou.jpg植木創業記念碑 昭和に入ると、大正15年に結成された古賀植木園芸組合により、長崎市で毎年1回植木展示即売会が開かれることになった。会場は大波止のお旅所。ここで3、4年開いたが、昼間はかなり売れても夜は人通りが少なく商売にならなかったので、市勧業課の協力もあって場所を観光通り(当時は万屋町から銅座町まで小川だった)付近に移した。ここでの出品物は鉢物と小物の根包みだけだったが、面白いように売れた。
 そのうち客の希望として小物や鉢物ばかりでなく、もう少し大きな植木も出品して欲しいということになり、観光通りで4年ほど出品し、その後は築町市場前の崖下に場所がえした。ここでは大きな植木も出品し観光通り時代よりはるかに好評だったが、市場側からの物言いで翌年には引地町から下町にかけて場所を移した。しかも町内の人たちから大いに喜ばれたのである。
 この長崎での植木展示即売会は古賀村と長崎市の業者が合同で長崎植木即売組合をつくって運営した。しかし問題点も多く、大波止時代だけで解散した。つぎの観光通り時代からは古賀と長崎とは別々に組合を作って運営してきた。

 昭和9年長崎日日新聞社主催の県下特産品人気投票で、古賀植木が見事一位の栄冠を獲得した。このときは新聞も大きく取り上げて紹介するし、「古賀植木」の名声は一躍全県下に鳴り渡った。爆発的といっていいほどの人気である。これを機に需要も次々に伸びてきた。
 満州事変により日本が独立宣言を発して満州国を建国した。昭和9年もと清の宣統帝であった溥儀が皇帝に即位したが、それを祝うかのようにたくさんの植木が満州に送られた。もちろん古賀からも出荷されたが、当時の植木業者、村民たちが大事に育てた立派な盆栽を溥儀皇帝に献上した。この盆栽献上に対し、遠藤総務長官を通じて感謝状が届けられたが、戦後いつの間にか行方不明になったという。

 昭和十年、植木創業記念碑が現在古賀小学校のある赤松山に建てられた。植木の先覚者に対する感謝と冥福を祈り、将来の植木業の発展を願って建てたもので、戦後32年に古賀小学校建設のため松原名西山に移され、恵比須神社とならんで建てられている。
 昭和12年、長崎観光協会の協力で古賀にハイキングコースが設定された。同時に植木の即売場をつくり、各業者の栽培地や陳列場も開放、大がかりな愛好者の参観デーを開くなどしてサービスに努めたので、古賀植木への関心も高まってきた。ところが7月に日華事変が勃発し、植木は不急物資として輸出の制約を受けるようになった。
 昭和14年、統制令がしかれて植木輸出業者も「九州西部園芸輸出協会」という統制機関の下に置かれるようになった。これも「日本青果物輸出組合」の統制下にあるので、貿易庁の割り当て分しか出荷できなかった。注文の3〜4割程度の輸出量である。当時の輸出先で最も大量出荷された地区は上海、大連、奉天、天津などである。特に上海向けが多かったが、これは積み出し港が長崎なので地の利がよく、その上古賀出身業者が上海にいたからだった。

DSCN0470.JPG植木まつりの様子 昭和15年、この頃になると植木の病虫害が海外輸出の難題とされていたが、古賀村では病虫害駆除と予防のため薫蒸室二室と荷造り所一棟を建設した。従来までの露店荷造り場も姿を消し、内外移輸出に対して万全の対策を講じた。とにかく植木の駆除をし、その駆除証明書がないと輸出できなかった。
 昭和16年に大東亜戦争に突入、第2次世界大戦が開始され、17年を最後に植木の海外輸出は完全に途絶してしまう。国内でも植木園芸場はつぶされ、もっぱら食料増産が強制された。先祖代々植木を子供のように育ててきた植木屋の姿は無残というほかない状態となった。

 昭和20年第2次世界大戦は終わり、長崎市の大半は相次ぐ戦災と原爆で町から緑が消えてしまった。古賀村も戦災こそ直接受けなかったが戦時中にほとんどの植木が伐採され、かつての「植木の里・古賀」の姿はなかった。戦争が終わっても国内は極度の食料不足に見舞われ、田畑は食料生産第一で植木の生産は厳しい制約を受けた。もし田畑に植木でも栽培しようものなら、食料供出が増やされる状況だった。
 昭和26年、この年あたりからようやく田畑で植木生産の転用許可がおり、長崎など都市部での住宅復興にともなって植木の需要もぼつぼつ出はじめた。古賀村でも待望久しかった植木の育成が開始された。転用許可をとって植木にとりかかったものの、各樹木とも種木までなくなっているのが現状だけに、容易に増殖もできない。植木に愛着はあっても生活がかかっており、植木を商品化するまでには年月を要する。植木より食料生産の方が手っ取り早く収入源になる。植木と農産物の両方を一緒にやるには土地がない。そんなわけで急に植木への切り替えは不可能だった。古賀植木業者は再び苦難の道をたどっていくわけだが、戦時中に伐採を余儀なくされたことが、いかに致命的であったかがうかがえる。先祖代々培われてきた植木への愛着心がそうさせるのか古賀の人たちは植木を捨てることができなかった。
 昭和27年、植木園芸組合を強化し、組合員も70人を超えた。狭い土地を有効に利用し、組合員が一致協力して適地適作主義で生産力を増やしていった。県外生産地への視察も活発となり、新種の導入も積極的に行った。

 戦後田畑の植木転用許可がおりてからおよそ6年か7年経ち、ようやく植木も商品化できるようになった。組合員を中心に古賀全村の努力が実を結んできた。植木業者の喜びも大きく、かつての「植木の里・古賀」がよみがえったのである。そして昭和31年から「古賀植木まつり」がスタートした。五月晴れの五月初旬を会期に選んだ。各組員の庭園を開放し、松原停留所から松原公民館に至る道路上に即売用の植木・盆栽を陳列した。長崎市を中心に広く県下愛好者に呼びかけ、期間中は松原一帯は観覧者で埋まり大盛況だった。
 昭和35年、この年の植木栽培面積は約40haに達し、業者の努力で戦前をしのぐ隆盛をみた。そうして植付け面積は2年後の昭和37年には50haにまで広がっていったのである。

DSCF1249_JPG.jpgサツキ(長崎クマノ) いろいろ盛衰をおりまぜながら古賀植木も今日まできたが、戦後急速に伸びたのは昭和30年前後の需要期と、35年から40年にかけての、いわゆる池田内閣の所得倍増政策に刺激された好景気、この2つの過渡期を経てからである。戦後、立ち直りのきっかけを作ったのはサツキと盆栽である。20年から25、26年ごろまでは食料第一だったが、食糧事情もやや好転してくると、古賀のように小規模農業では生計が立たず、植木の生産にとりかかった。その最初がサツキだった。このサツキは「長崎クマノ」と名付けられ、古賀特産品として名が広がっていく。庭用としてほとんどの家庭に植えられ、地元はもちろん九州各県からも業者が大量に仕入れに来た。古賀のサツキは戦前も中国などに出荷していたが、埼玉県鹿沼のサツキと種類が違って、1年中葉がきれいなのが特徴で人気があった。サツキは盆栽など鉢物として戦前からの分も各自大事に育てていたので、とにかくこのサツキで古賀の植木が立ち直ったといっても過言ではない。

 そして平成16年4月に長崎市植木センターが完成し、古賀植木園芸組合もその周辺整備に協力しました。植木センターの庭園、現在古賀で生産されている様々な種類の植樹、川沿いには各種の生垣の見本を設置するなど、「植木の里・古賀」の発展を促進し、環境のよい町づくりの一助となるよう今後も努力していきたいと思います。

「ながさき植木物語」より
▲ ページトップへ